
<蒼い鳥>
夏でありながら湿度を感じさせない気候の中、木製のドアを開けるとホテルを後にした。
千早は小高い丘の上にどっしりと構えた木に向かって歩いていた。
それは千早を再び目覚めさせてくれた人と再開した時に行った場所。
生まれて初めて心の底から想えた人と初めてのキスを交わした場所。
雪が降り続く中、暖かな腕に包まれてまどろむ様な甘い時を過ごした場所。
悠也が連れて来てくれた彼のお気に入りの場所。
今度はあの時の様に飛び出してきたのではなくちゃんと身支度を整え、少しの間この地で過ごす為にホテルも予約していた。
千早はあの時と殆ど何も変わっていない。
悠也を想う気持ちと喉に巻かれた痛々しい包帯以外は…
悠也と会ったあの日を境に千早は変わった。
いや、戻ったと言うのが正しいのかもしれない。
嬉しそうにレッスンをこなし、楽しそうに歌うその様子はまるで新しい玩具を手にした赤ん坊の様だった。
以前の勢いにも増してファンを獲得し続けトップアイドルと言える場所までもう目の前まで迫っていたある日。
悠也への想いに千早は区切りを一つつけていた。
それは別れを自分に言い聞かせる様なものではなく、好きな人から大切な人へと相手を昇華させる方向へと
位置づけを変更したのだった。
もちろん、もう一人の自分が異論を放たない訳がない。
悠也と過ごす時間はあまりにも甘く穏やかで誘惑とも言えるべき魅力が沢山詰まっている。
それを蹴ってまでそうしたいと願うのは自分を甘やかさない為の自戒と悠也を困らせない為の千早なりの優しさだった。
あの日、凍てつく様な雪の下で会った悠也の指に光る物、アーマーリングは恐らく自分で買った物ではない。
営業をしなければならない悠也に取ってそんな物を着けて営業が出来るわけも無く、あんな寒い日にあんな物を着けていては
凍傷すらし兼ねない。
悠也が全く違う仕事でそれをお洒落として着けていたと言えばそれまでだったが、女の勘と言うべきものが直感的にそうではないと信じていた。
それに、悠也がする行動には必ず意味がある。
オーディションの時も、デビューした日に営業に走り回ったのにもちゃんと意味があった。
その様に考えれば自ずと答えは出てくる。
悠也は何らかの理由があって仕事中以外は指輪をしていなければならない。
そしてそれは他の誰かの贈り物で、十中八九相手は女性だろうと思うのは時期尚早だろうか?
そう思いながらの仮説だったが千早はそうであっても嫌な気はしなかった。
自分の傍に悠也はいつも居て見守ってくれている。
悠也も必ずそうでないにせよそれに近い事を思ってくれているだろう。
自惚れかもしれないと考えつつも千早はそう思っていた。
それ以上望んではいけないとも。
「千早なら大丈夫」
と言った悠也の声は森羅万象を司る神の御声の様に千早の心を支配している。
それさえあれば今の千早に怖いものなど何も無くなっていた。
そんな気持ちで千早はいつもの様に時間前にレッスン室に入り自主トレをこなしていた。
「んっんん、あーあー」
軽く声の調子をあわせ一呼吸置いてから蒼い鳥の歌詞を口ずさむ。
い〜つも〜 心の〜まま〜
ただ〜 は〜ばたく〜よ〜
蒼い〜
次の歌詞をなぞろうとした時、途端に喉に何かがつっかえた様に千早は咳き込んでしまった。
「こほっこほっ!…けほっ」
まずい、と千早は息を吸い込んだ刹那にそう感じた。
喉が息を吸う度にヒューヒューと奇妙な音を立てている。
「けほっけほっ……くふっ」
どうにか咳を我慢しようとする千早の思いとは裏腹に止まるどころか咳はより重く、深い音を立てて口から漏れていた。
「げほっ…ごほっごほっごほっ…ん…はぁはぁ…ぐふっ」
息苦しさに涙が滲む。
膝を落とし口を押さえ必死に酸素を肺に送り込んでいると不意にドアの開く音がした。
レッスンの時間15分前ピッタリに来る冬馬だった。
「千早っ!?」
苦しそうに咳き込みながら口を押さえる千早の姿を見て冬馬はすぐに千早に駆け寄り背を擦ってくれた。
「どうした!?」
尋常ならぬ有様の千早に珍しく冬馬は落ち着きを保てていない様だった。
「げほげほげほっ!だっ…だいじょぶ、ヒュ…です…くふっ」
必死にそう訴える千早の様子は誰が見ても言葉通りに受け取る事は出来なかっただろう。
冬馬もご多分に漏れずそう思った。
「説得力が無さ過ぎだ!」
声を上げる実に冬馬らしい言葉が千早の耳に届くと千早は咳き込みながらも小さく笑った。
自分の様子を見て慌ててはいるものの冬馬はやはり冬馬だった。
「ごほっごほっ!や…ぱり、プロッ…サーもげほっげほっ!ゆ…やさんっに…くふ…似てますね」
そう言ったのは千早の本音だった。
口調こそ冷たかったり、時には無言であったりするものの冷血なのではなくそれを素直に表現してくれないだけで
基本的に冬馬も悠也も優しい。
悠也がそう教えてくれた今、冬馬のその優しさを千早は実感していた。
「そんな事はどうでもいいから、喋るな!」
冬馬は千早の苦しさを少しでも和らげようと背を擦り続けてくれている。
「げほっげほっ、ごほっ…はぁはぁはぁはぁ…ごほっ!」
一際大きな咳が音を漏らした瞬間、ギィッと尖った針金の先で引っ掻かれた様な痛みが喉の奥に走る。
それと同時に生温かい物が口を塞いでいた手に飛び散った。
千早の手の平から滴る赤い血を見て冬馬はぞっとした。
吐血すると言う事は命に関わる事と直結する。
その瞬間に冬馬の頭は激しく巡り、無意識の内に携帯電話を取り出していた。
冬馬の手際の良い対処で千早は救急車に乗せられ透明なマスクを被されると次第に意識は遠のいていった。
翌朝、目を覚ましていつもと違う風景に一瞬驚きはしたが前日の記憶を辿って直ぐにここが何処なのかは判断出来た。
あれ程激しかった咳は嘘の様に止まっていて、その代わりに喉には包帯が緩めに巻かれている。
辺りを見回すと傍の椅子に腰掛けて腕を組んで眠っている冬馬の姿が飛び込んできた。
一晩中付き添ってくれたのだろう。
冬馬はいつもの様にスーツのまま眠っていた。
千早は小さく溜息を吐いて冬馬を揺り起こそうとすると手を触れようとした瞬間に冬馬が目を覚ましたので少しびっくりした。
「んっ!…あぁ。ふわぁあ、おはよう千早。調子はどうだい?」
大きく伸びをした後大きな欠伸を一つして冬馬は開口一番千早にそんな言葉を掛けてくれた。
そんな普段のキビキビとした冬馬からは想像出来ない様な姿を目の当たりにして千早はクスッと小さく笑いながら返事をする。
「咳は大丈夫みたいです、ちょっと喉がヒリヒリしますけど…」
チクリとさす様な小さな痛みを意識しながら千早は包帯の上から喉を擦る。
「そうか…まぁ、そうだろう」
煮え切らない様子で冬馬は自分に言い聞かせる様にポツリと言った。
「あ、あの…」
しばらく考える様に俯いていた冬馬に、千早は居た堪れなくなって声を掛けた。
「結構、深刻な状態…なんですね?」
冬馬の様子を見て千早は確認とも取れる質問をすると口を閉ざした。
冬馬は少し肩を竦めて千早の視線を捉えると大きな息を吐いた。
「確かにあまりいい状況ではないな。普通に喋る分には問題は無いそうだ、ただ―」
冬馬の言葉に千早はゴクリと固唾を飲み込む。
死を宣告される時はきっとこんな感じなのだろうと一瞬思った。
飲み込んだ唾がヒリヒリと喉の痛みを煽る。
「喉に過度な負担を掛けてはいけない…つまり、歌うなって事らしい」
半ば予想はしていたものの冬馬の言葉はやはりとてもとても重い物だった。
「そう、ですか…歌を…」
聞かされた事を繰り返し覚える様に千早はそう呟いた。
歌を歌う事は千早にとって人生そのものなんだという事は自分でも解っている。
悠也がそれを再認識させてくれたのは少し前の話しだ。
今まで自分が生きる為の糧とも言える唯一の希望の光が今や千早の体を蝕む毒になってしまった。
最も完成度の高い歌を歌わなければならない、今この時期にして…
神様はなんて気まぐれなのかしら。
そう思えたのは千早の気持ちに多少の余裕があったからだろう。
千早はそんな事を考えた自分に自嘲めいた苦笑いを浮かべた。
冬馬は千早を見て少し驚いていた。
「取り乱すかと思ってたんだけどな…」
嘘か真かそんな事をぽつりと言ったのだった。
「確かに、ショックですけれど。治るんですよね?」
千早はそう言って小首を傾げて淡く微笑んだ。
千早の言葉にはそういい切るに足る絶対な根拠があった。
それは何より冬馬自身が慌てふためいていない事。
取り乱していない事。
それだけだったが、それだけで充分だった。
あれ程の話しをしたのにも関わらず逆に笑みを浮かべた千早を見て冬馬は諦めた様に大きな溜息を吐いた。
「もっと深刻そうな表情しとくべきだったかな」
そう言って冬馬は薄く笑った。
「そうだったらもしかすると取り乱していたかもしれません」
「ふむ…ま、そんな演技力は持ち合わせてないけどな。しばらく無理をしなければ治るだろう」
やれやれと言った感じで冬馬は立ち上がった。
「当分、休暇だな。その辺の処理はやっておく。ゆっくり休めばいい、これも仕事だ」
その辺の処理と言うのはきっと報道関係の事だろう。
千早の様子を見て大丈夫だと判断したのか冬馬は椅子を片付けて小さく伸びをした。
「あぁ、そうだ―」
言いかけた冬馬の言葉を千早が遮った。
「必ず事前に連絡します」
クスッと笑う千早を見て一瞬キョトンとした冬馬だったが直ぐに正気を取り戻すと「どうせ行くだろう」先読みした
その先読みをされたのが悔しかったのか少しつまらなそうな顔をしていた。
それから小さく
「…悠也に似てきたな」
と呟いて冬馬は千早の居る病室を後にした。
そんな冬馬の言葉は千早にとって嬉しくもくすぐったかったりもした。
そんなやり取りをしたのは1ヶ月と半分程前
退院してトレーニングこそ出来るもののやはり歌えないと言うのは千早にとって重大な被害をもたらしていた。
「暇ね…」
もちろん勉強を欠かすことは無いが歌わないと言う事と歌えないという事は決定的に違う事を千早は実感した。
歌えずに2,3日も過ごせばやることはなくなってしまい、千早は動物園の熊よろしくうろうろと部屋を行ったり来たりしてしまう。
そんな千早だったから決めてから家を出るのには数時間も掛からなかった。
手早く荷物をまとめて冬馬に一言連絡するとその日の内に家を飛び出していた。
そして今、その目的地に向けて小高い丘を登っているのである。
澄んだ空気を吸い込むと都会のそれよりも濃い初夏の薫りが肺を満たしてくれる。
遠く低い所に見える軒並みを眺め、以前は雪に埋もれていた緑を踏みながら頂上の大木を目指していると
不意にこの自然に似つかわしくない音が聞こえてきた。
「ふっ………あ〜、今日も風が気持ちいいなぁ♪」
声のした方を見上げれば大木の横には先客らしき女の子の小さな背中が見えた。
この時期だと言うのに長袖のゴシックロリータの黒服に身を包んだ少女はまだ薄暗がりな空を少し見上げると再び視線を落とした。
ド〜はドーナツーのード〜
レ〜はレモンのレ〜
ミ〜はみーんなーのーミ〜
ファ〜はファイトのファ〜♪
他に誰も居ない安心感からか少女は少し高めのその声で歌を歌いだしたのだった。
その可愛さの溢れる歌と歌声に千早は思わず足を止め口元に笑みを零した。
さぁ〜うーたーいーまーしょっ♪
そこまで歌い切ると少女は嬉しそうに声を上げた。
「ん〜良い調子♪んーんーあーあー」
喉の調子を確かめて少女は深く息を吸うとまた歌を口ずさんだ。
「なっ!?…」
少女が口ずさむ言葉に千早は思わず目を見開いた。
先程の童謡とは打って変わり次に彼女が歌いだしたのは紛れも無い英語の曲だった。
しかし驚いたのはそれだけではない。
耳に残っている可愛らしい声からは想像もつかない程、声色を変えて歌っている。
水面を鳴らす様な滑らかで、艶やかで、透き通った”女性”の声が流暢な英語をメロディに乗せて紡いでいく。
『Beyond the bounds』
Travelling beyond the bounds 境界線を越えて旅立つ
We have to take that step その第一歩を踏まなければ
What are we waiting for? It's now or never 何を躊躇しているの?今行かねば永遠に行かれない
Fear to see "The World to Be" 「その先の世界」を見るのが怖い
Is why we hesitate だからこそ躊躇っている
Repeat the same mistake 同じ過ちを繰り返す
Hoping to break new ground 新しい大地に希望を抱いて
The blue bird flies away 青い鳥は飛んでいく
時折、英語でもない異国の言葉を織り交ぜながら少女は惜しげもなくその声音を披露した。
歌い終えてから満足そうに笑い声を上げると、少女はまた少し喉を慣らし大きく息を吸った。
千早は遂その光景を息を飲んで見守ってしまっていた。
そして次いで少女の口ずさんだメロディは聴けば英語だがまたしても声色が違う。
今度は少女の声でも女性の声でもない。
声変わり前の幼い少年の、訓練され精錬された声色だった。
『You were there』
The island baths in the sun's bright rays 眩い陽が差し込む島
Distant hills wear a shroud of grey 灰色の影を映し出す丘
A lonely breeze whispers in the trees 囁く様に静かに息づく木々
Sole witness to history 歴史を綴るはただそれだけ
Fleeting memories rise 私の心の陰りから浮かぶ
From the shadows of my mind 束の間の思い出
Sing "nonomori" -endless corridors ねぇ歌って ”さよなら”と この永遠の回廊で
Say "nonomori" -hopeless warriors ねぇ伝えて ”ありがとう”と 希望を失くした戦士達
You were there 君は 居てくれた
You were there 君が 居てくれた
Slaves to our destiny 私達は 運命の歯車を 回す奴隷
I recall a melody 私は そのメロディを 繰り返す
Sing "nonomori" -seasons lit with gold ねぇ歌って ”ありがとう”と 黄金色の季節が来る頃に
Say "nonomori" -legends yet untold ねぇ伝えて ”さよなら”と 語られる事無き伝説
You were there 君が 居てくれた
You were there 君は 居てくれた
Happiness follows sorrow 悲しみの後には きっと喜びが訪れるから
Only believing in tomorrow 私は明日を信じられるの
千早はそのあまりの変わり様と潜在能力の高さに文字通り我を忘れていた。
千早が正気を取り戻したのは再び幼い声が「好調、好調♪」と言ってからだった。
千早は足を早めて彼女に歩み寄る。
歌手として千早は居ても立っても居られなかった。
徐々に近付くにつれ少女の姿が大きくなる。
大きな青い鳥の刺繍を施した黒いドレスが手の届きそうな位置に来ると千早は声を掛けた。
「あの…」
「んにゃあ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!」
千早が声を掛けると少女は尻尾を踏まれた猫の様な声を上げて素早く大木の裏に身を隠した。
素っ頓狂な声を上げた少女に驚かせた張本人の千早も目が点になっていた。
少女の隠れた方を見つめているとピョンと小さく束にしていた前髪が時折覗いている。
見れるか見れないかの所で覗こうとしているのは千早にも想像するに易かった。
しばらく待っているとようやくきちんとした前髪が姿を現し次いでゆーっくりと右の瞳だけが千早と目が合った。
そんな仕草が可愛らしくて千早が微笑むと少女は大木の向こうから誰に言うでもなく口を開いた。
「にゅ…?嘘っ!?女の子?」
千早の姿を見て安心したのか今度は隠していた体を急に晒すとピョンピョンと飛び跳ねる様に駆け寄ってきて千早の手を取った。
「アハッ、女の子だー♪どうしたのこんな所で?何してるの?観光とかじゃないよね?遊びに来たのー?」
「え?あ、あの…その…」
矢継ぎ早に質問を投げ掛ける少女に千早は圧倒されていた。
絹の様にきめ細かい色白の肌にくっきりと大きな黒目がちの右目が爛々と輝いている。
亜麻色のふわふわとしたショートカットの髪をぴょんと跳ねた一本と左目を隠す前髪とそれを留める
雪の様に白いコンコルド、口元の小さなホクロが印象的だった。
厚底のブーツを含めても155cm位の身長と細身の体が、小動物っぽさを強調している。
「にゃ、ごめんね。つい嬉しくって♪麻鈴は麻鈴!柏原 麻鈴(かしわばら まりん)!18歳だよっ!よろしくねー♪」
そう言うと麻鈴と名乗った少女は既に握っている千早の手を握手する様に2,3度上下に振った。
「私は千早。如月 千早、こちらこそよろしく」
クスッと笑い千早が自己紹介を終えると麻鈴もつられてニッコリと微笑むと真っ白な八重歯が顔を出した。
「あ、麻鈴ちゃんと左目あるからね?心配しないでね?ほら♪」
そう言って麻鈴はコンコルドごと前髪を持ち上げて見せた左目でパチリとウインクをした。
その仕草は同性の千早から見ても溜息が出るくらい可愛らしいものだった。
「ねぇねぇ、千早はなんでここに居るの?麻鈴いつもここに居るけど今まで1人しか見たことないよ?」
相変わらず興味津々の様子で好奇の目を向けながら麻鈴は質問を繰り返す。
「ここには、観光みたいなもので。私の思い出の場所なんです。」
「ふ〜ん、そっかー♪」
千早の言葉に麻鈴は満足した様に声を上げた。
「柏原さんはいつもここで歌の練習を?」
今度は千早が尋ねると麻鈴はくすぐったそうに目を細めた。
「ん〜…麻鈴て呼んで〜、くすぐったいよ〜。麻鈴も千早って呼ぶから〜」
さっき既に名前で呼んでいたのも忘れているのか麻鈴がそう言うので千早は改めて尋ねる事にした。
「麻鈴はいつもここで練習してるの?」
千早が言い直すと麻鈴は嬉しそうに頷く。
「うん、麻鈴はいつもここで歌ってるよ!歌を歌うのがお仕事なんだよっ♪」
「そうなの。私も歌手を目指してるのよ」
千早が言うと麻鈴は更に瞳を輝かせた。
「ほんとーーっ!?なんか嬉しいなぁ♪すごい偶然だねっ!」
嬉々として麻鈴が千早の手をブンブンと振ると合わせてカチャカチャと金属のぶつかる音がした。
千早が音のする方に視線を移すと麻鈴の指は左右共に銀色に輝いている。
「あ、ごめんね。痛かった?」
視線に気付いた麻鈴が気遣うように手を離した。
「ううん、痛かった訳じゃないわ」
「麻鈴、指に着けるのが好きだからいっぱい着けてるんだ…」
そう言って麻鈴は両手を顔の位置まで上げて開いた。
見れば確かに麻鈴の指は殆どがアーマーリングで塞がっている。
「ちょっと重いんだけどね…」
照れ臭そうに言う麻鈴の姿はやっぱり可愛かった。
「フフッ、でしょうね」
「そう言えば千早は何処から来たの?」
麻鈴は両手を下げてそう尋ねた。
「私は東京から。お休みを貰ったから。旅行みたいなものかしら」
千早がそう言うと麻鈴が「あ…」と小さく口を開いた。
「もしかして…お休みって」
聞きづらそうに言う麻鈴の視線は千早の喉に巻かれた包帯を見つめていた。
勘の鋭い子だなと思いつつも千早は小さく頷いた。
「少し喉を痛めてしまったの。でも直ぐに治るわ」
努めて明るく前向きな事を言った千早だったが麻鈴はやはり申し訳なさそうな表情を崩さなかった。
「ごめんね…麻鈴、目が悪いから気付かなくて。…アクセかと思ってた…痛かったよね」
恐る恐る麻鈴は手を伸ばすと腫れ物に触れる様に静かに千早の喉に触れた。
「ごめんね…ほんとに、ごめんね…ごめんなさい…」
千早は大仰に謝り続ける麻鈴の手を取って微笑んだ。
「そんなに謝る必要は無いわ、喋る位なら痛くないし。気遣ってくれて有難う」
泣き出しそうな表情だった麻鈴は千早の言葉を聞いてやっと表情を戻した。
「うん…無理はしないでね?辛かったら絶対言ってね?」
上目遣いに千早の表情を覗き込みながら麻鈴は小さく言った。
「解ったわ、約束しましょ」
「うん!約束ね!」
心底安堵したように麻鈴はようやく笑顔を取り戻すと今度は千早の腕を抱き締める様に抱えた。
それからしばらくそんな麻鈴に腕を取られたまま千早は会話を交わしていた。
麻鈴はそれは親しい知人と再会した様に千早にべったりだった。
麻鈴に聞かれるままに千早は答えた。
東京の事、仕事の事、同じ事務所に所属するアイドル達の事、プロデューサーの事、彼氏の有無…
千早が答える度に麻鈴は表情をコロコロと変えながらそれでも最後には笑顔を向けていた。
「へぇ、向こうには色々あるんだねぇ。すごいなぁ、こっちは見ての通り何にも無いのにね♪」
「そんな事無いわ。感性を養ったり気分を落ち着かせるのはここの方が優れてるもの。麻鈴が羨ましい」
「そ、そうかなぁ?えへへ…」
照れて少し頷くと麻鈴は少しだけ赤くした顔を上げた。
そして麻鈴が再び口を開こうとした時。
く〜っと間伸びした音が聞こえてきた。
「あう…」
音の主は麻鈴だった。
「あ、ははは…はしゃぎ過ぎたみたい」
「クッ、フフフフッ!」
「うぅ…恥ずかしいな…」
耳まで真っ赤にした麻鈴を見て千早が腕時計に視線を移すと時刻は10時半を過ぎていた。
千早が登って来た時はまだ朝も早かったのでそれよりも前に麻鈴は起きていた事になる。
そう考えれば麻鈴が朝食を取っていなければ当たり前の事だった。
麻鈴は千早の腕を離し来た時の様に軽快な足取りで大木の傍に駆け寄ると手招きをした。
「千早、こっちこっちー」
誘われるがままにやっと頂上に辿り着いた千早は眼下に広がる風景に視線を落とす。
色づきこそ違えどあの時と何も変わっていない。
千早にはそれが嬉しかった。
ふとあの時の思い出が脳裏をよぎる。
沢山泣いて、沢山笑って、穏やかな時を過ごして…
少しだけ懸念していた事が解消された様な気がした。
感慨に耽っていると何やらごそごそとしていた麻鈴が傍に寄ってきていた。
「ごはんにしようよ♪千早も食べるでしょ?」
そう言って笑顔と共に八重歯を見せながら麻鈴が小さな籠を開くと中にはサンドイッチが詰まっていた。
しかし、お世辞にも多いとは言えない量のそれを見て千早は躊躇った。
「でも、これは麻鈴の一人分なのでしょ?」
千早が遠慮がちに言うと麻鈴はにんまりと微笑んだ。
「一緒に食べようよ♪麻鈴はあまりお腹空かないからへーきだよ♪」
さっきお腹の虫が鳴っていたのでなんとも説得力に欠ける麻鈴の言葉だった。
「でも…麻鈴の朝ごはんなのでしょ?」
そうやって聞くと麻鈴は小さく首を傾げた。
「うーん、朝ごはんと言えばそうなんだけど…麻鈴は一日これしか食べないよ?」
この言葉には小食の千早も驚いた。
一日一食しか食べない麻鈴は千早の朝ごはん程度の量で充分なのだと言う。
通りで細い訳だと思いながらも千早は麻鈴を見つめた。
そして悔しそうに声を上げる。
「くっ…」
神様は不公平だと今以上思ったことは無かった。
「?…どしたの?」
「い、いえ。何でもないわ。麻鈴が良ければ頂くわ」
千早がそう答えると麻鈴は再び笑顔に戻って千早の分を蓋に分けてくれた。
三角のサンドイッチが3つとリンゴを6等分したのが1つ。
これの2倍が麻鈴の一日の食料だった。
「いただきまぁーす♪」
小さな口をめいっぱい開けて麻鈴はサンドイッチを齧る。
千早も一口齧るとサニーレタスとハムにカラシマヨネーズがぴりりと効いていて美味しかった。
「これは、麻鈴が作ったの?」
隣ではむはむとサンドイッチを齧っている麻鈴に尋ねる。
「うん、いつも作ってから持ってくるんだー♪」
そう言って麻鈴は嬉しそうにまた一口頬張った。
そんな麻鈴の様子は千早に何故だか懐かしい雰囲気を思い出させた。
とてもとても懐かしい。
幼い頃、弟や遠足で皆と一緒に食べるお昼はこんな感じだったかもしれない。
ただのサンドイッチが風景や一緒に食べる友達が居るだけでこんなにも味が変わるのかと幼いながら思ったこともある。
麻鈴の様子はまさにそれに近かった。
ビニールシートを敷いて足を投げ出しながらおかずや飲み物を交換する。
麻鈴が嬉しそうに差し出してくれた水筒の予備のコップに口を付けると甘酸っぱい味と香りが喉と鼻をくすぐる。
はちみつが多めな飲み物は甘さを残して千早の喉を潤していった。
「麻鈴は、良くこうやってピクニックとかするの?」
「ん…う、うん!いつもここにいるから、ご飯はここで食べるんだよ♪」
「お友達と?」
何気なしに聞いた一言だった。
「あ…ぁの…」
詰まった麻鈴を見て千早が「しまった」と後悔するには少し遅すぎた。
その表情を見ていれば先程詰まりながらも笑顔で返した麻鈴の気持ちが少しだけ解る様な気がする。
麻鈴の知られたくない部分に触れてしまったと思ったのは気のせいではなかった。
努めて元気に隠しながら返そうとしたその姿も今思えば実に痛々しい。
サンドイッチを食む事を止めて俯いていた麻鈴はしばらくして遠い何処かを見つめながら口を開いた。
「麻鈴は…お友達居ないんだ。だから…だから、いつも…」
その先は小さすぎて聞こえなかった。
「千早は、麻鈴の…友達だと思ってもいいよね?」
懇願する様な眼差しを向けた麻鈴の言葉に千早は首を縦にも横にも振れなかった。
「ごめん、そんなの聞く事じゃないよね…」
困惑する千早の表情を見て麻鈴はそう寂しそうに呟くと小さく頷いて再び千早に向き直った。
「麻鈴ね、人と目を合わせて話せないの。怖くて…」
まるで物語の様に麻鈴は話し始めた。
「皆、麻鈴の事見ると変な物を見る様な目で見てくるの…小さい時からずっとそうなんだ…」
「…」
「面と向かってね、気持ち悪いって言われた事もあったな。凄いショックだったよ」
クスッと自嘲めいた笑みを零して麻鈴は続けた。
「だから…だから、千早がどう思うかは任せるね。麻鈴は千早ともっと仲良くなりたいから隠し事しない、約束する」
そう決心した様に言って麻鈴は前髪を留めていたコンコルドを外し襟元に留めた。
「あ、でもちょっと勇気が無いから…これも千早に任せるね♪」
少し笑みを取り戻して麻鈴はそう言った。
少し顎を上向けて千早を待っている麻鈴はなんだかとても小さく見えた。
言われるがままにそっと前髪に手を伸ばすと麻鈴の体がビクリと震える。
梳く様に前髪を上げると麻鈴はキュッと目を閉じた。
カタカタと麻鈴の体が震える。
ギュッと胸の前の手を握ると麻鈴は瞼をゆっくりと開いた。
長いまつげに覆われた瞼が開いた先の瞳に千早は驚かずには居られなかった。
麻鈴の瞳の色は黒でも茶でもなかった。
例えるならハスキー犬の様な銀色とも水色とも言える透き通った色。
見つめれば吸い込まれてしまいそうな薄い色だった。
右は塗りつぶした様な黒、左は透き通る様な銀。
オッドアイ。
初めて目の当たりにしたらそれは当然驚いてしまうだろう。
そう思えば麻鈴の今の服装も何だか頷ける様な気がした。
東京に戻れば同じ様な服を着た子がカラーコンタクトで左右の目の色を変えているのは良くある事だ。
しかし、それは大きくなってからの個性。
幼い頃から純粋なオッドアイをしていたらその先に待っているのは自分と違う物を持つ者に対する差別しかない。
そんな差別を受けながら麻鈴は日々を過ごして来たのだろう。
カタカタと震える麻鈴が口を開いた。
「ち、千早…も。ま、麻鈴の事…こ、こわい?気持ち…わる、い?」
喋る事も覚束無い様子で確認する麻鈴の姿を見ればどれだけ酷い仕打ちをされて来たのかが窺える。
そして千早と出会った時、聞いてもいない左目を確認させた事は恐怖の裏返しだったのかも知れない。
下手に詮索される前に確認させてしまえばそれ以上突っ込まれる事は無い。
「ど、どう…かな?やっぱり、へ、ヘンかな?」
黒と銀の両の眼に涙を溜めてその銀色に光る小さな手で左頬に添えられた千早の腕を掴むと麻鈴は千早の返事を仰いだ。
麻鈴の瞳は千早の瞳を捉える事が出来ずに忙しなく泳いでいる。
千早はゆっくりと首を横に振った。
哀れみが混じっていなかったかと言われれば自信は無い。
でも、そんな事でその人を決め付けられる程、千早は何もかもを知っている神様ではない。
そう思ってもう一度首を横に振った。
「綺麗な色ね」
千早が薄く微笑んでそう言うと麻鈴は驚いた様に2,3回瞬きをして嬉しそうに八重歯を見せた。
「よ、よかった…、ありがとう♪」
心底安堵したのか麻鈴は胸を撫で下ろすと姿勢を元に戻した。
「ご、ごめんね。なんか変な話ししちゃったね!」
溜まっていた涙を指の甲で拭いながら麻鈴はその可愛らしい笑顔を見せた。
「いいえ、貴方は…。麻鈴は私の喉も気にかけてくれたもの。私も嬉しかった」
麻鈴が千早の喉を気に掛けて謝ったのは決して大仰だったのではなかった。
痛みを知っているが故、辛い思いをさせてしまった事を悔やんでの事なのだ。
それからしばらくして食事を終えた。
最後のデザートであるリンゴをシャクシャクと食む音が止む。
「ごちそうさま」
「お粗末さまー♪」
「麻鈴はこの後どうするの?」
「麻鈴?麻鈴は帰るかな、千早は?」
「私も少ししたら今日は戻ろうかしら」
「そっかー。あ、ねぇ千早は後どれ位こっちに居られるの?」
麻鈴は持ってきていたバスケットとビニールシートを片付けながら尋ねた。
「今日含めて3日位かしら?」
「明日も会えるかなぁ?」
そんななんでもない言葉が何だか可愛くて千早は思わず笑みを零した。
「クスッ、いいわよ」
そう答えたのには何の他意も無い。
千早としても麻鈴の様に同じ歌手を目指す子と知り合えたのは嬉しい偶然だったし、知らない土地で親しい知人が出来たのもまた嬉しかった。
「ほんとー?じゃあ、明日またここで会おう?デートしようよ♪」
「デ、デート?」
「そ、デート♪」
「それって男性とするものなんじゃ…」
「え?そうなの?好きな人とするのはデートじゃないの?」
二人して小首を傾げてしまう。
結局答えは見つからずにお互いの姿を見てどちらともなく笑ってしまっていた。
「アハハハッ♪まぁどっちでもいいかな♪」
「そうね、また明日ここで会いましょう」
「うん、じゃあまたね♪」
手を大きく振って帰っていく麻鈴の姿を見て千早は吸いきれない程の緑の香りと
久々の充実感を満喫していた。
今回ここに追加されました。
翌日
「千早〜〜〜っ!おはよーーー!」
千早が着く頃にはこちらに気付いていた麻鈴が手を振って待っていた。
麻鈴は昨日とは違いゴシックではなくクリーム色のガーゼライダースベストとピンクのタンクトップ、黒のスカート付きパンツと厚底のブーツだった。
ヘムラインが気に入らないのかスカートの左端はベルトにしまっている。
左腕には夏だと言うのにエナメル素材の黒いアームウォーマーが光っていた。
勿論、指にはアーマーリングがびっしり装着されていたのは言うまでもない。
「おはよう、麻鈴」
「うん、おはよー♪」
「もう歌の練習は済んだの?」
「え?あ、うん」
「そう、少し残念ね」
「んえ?どして?」
「麻鈴の歌声が聴けると思ったのに」
そう残念そうに言うと麻鈴は照れた様な困った様な顔をした。
「あー、千早が聴きたいって言ってくれるなら…麻鈴、歌うよ?」
クスッと微笑んで千早は言った。
「いいえ、歌った後なら良いわ。明日聞かせてもらおうかしら」
「うぅ、解った。じゃあ明日…そうだね、明日もここに来ようね♪」
そう言って麻鈴は八重歯を見せて微笑んだ。
「じゃあ早速行こうよ」
仰々しいゴシックとは違って軽装とも言える服で少し大きめのバッグを持って麻鈴はそう言った
連れられるまま登ってきたばかりの丘を降りていく。
「今日は何処に連れて行ってくれるの?」
「んと、ここよりちょっと人が多い所でショッピング♪CD屋さんとか服屋さんとかブラブラ見て歩きたいな♪」
心底楽しそうに麻鈴は言った。
電車で30分程揺られて着いた先は言われれば確かに大きな建物やビルが立ち並んでいる町だった。
麻鈴が最初に立ち寄ったのは服屋だった。
それも普通の洋服屋ではない。
ゴスロリ専門店だった。
ある種、置いてある物が置いてある物なだけに禍々しさが立ち込める店の中を麻鈴は闊歩している。
千早も次いで歩いていたがどれもこれも自分には似合わないなと思いながらも麻鈴が手に取った物を隣で見ていた。
麻鈴はあろう事か千早に試着を勧め無理矢理着させられて出てくれば嬉しそうに声を上げて笑っている。
「アハハハハッ♪千早、似合うよー♪」
「絶対着ません!」
それもそのはず調子に乗った麻鈴が猫やらうさやらの耳まで着けたのだから千早にとってこれ以上恥ずかしいものは無かった。
店を後にしてからも麻鈴は時折思い出す様に笑みを零していた。
「全く…」
「似合うのにー♪」
「着ません」
「あはははっ♪」
そんなやり取りは千早も嫌ではなかった。
千早自信、歌に没頭するあまり友人は多いほうではなかった。
それもつい最近事務所で知り合った候補生達がもっとも親しい存在だった。
普通に高校に通い、普通に友達が出来ていればこんな感じだったのかも知れないと少しだけ思っていた。
それから軽く食事を済ませCDショップの方に向かうと先程の店とは違い人が多くなっていた。
麻鈴は行き慣れているのか店に入るや否や何処かを目指して足早に駆けて行ってしまった。
仕方が無いので千早が店内を見回していると新譜のコーナーのポスターが目に入った。
麻鈴と一目で分かるように堂々と目の前に貼られている。
耳を傾ければ有線でも麻鈴の声が聴こえていた。
七色の小悪魔と言うのが麻鈴のキャッチコピーなのかそれを見て千早はちょっと吹いてしまう。
確かに声を変えて歌う事が出来るし、小悪魔的な印象を持っている麻鈴にはピッタリだったがちょっとセンスを疑ってしまった。
自分のキャッチコピーはなんだったろうかと思い返せば悠也が嬉々として「絶世の美声女」と付けたのを思い出した。
恥ずかしさのあまり猛反発をして結局キャッチコピー無しで行こうと決まった時は心底安堵したのを覚えている。
千早は麻鈴のアルバムを一枚買って戻ってくると麻鈴がパタパタと駆け寄ってきた。
「千早っ!」
千早を探して走り回ったのか麻鈴は肩で苦しそうに息をしている。
「どうかしたの?」
「千早って…凄い人だったんだねっ!」
そう言って一息吐くと千早のアルバム全種類を扇の様に拡げて見せた。
「こんなにCD出してたんだねっ!びっくりだよ♪」
そんな事を目の前でされたら千早でなくても照れてしまう。
「え、あ。うん、ありがとう…。でも、麻鈴もアルバム出してるでしょ?」
返事をしつつ千早は麻鈴のポスターを指差した。
「にゃーーーっ!見ないでっ!恥ずかしぃ…」
「フフッ!麻鈴が有名人で私も鼻が高いわ」
「あはっ♪千早には負けるよー。あ、そうだ!千早のオススメはどれかな?」
「私にオススメって聞いたら全部って答えるんじゃないかしら?」
「ん、麻鈴でもそう言うと思う…」
麻鈴の言葉にクスッと小さく笑みを零すと千早は一枚を指差した。
「これが一番完成度が高いと思うわ。私の大切な人とプロデューサーの二人に支えられて出来上がった曲が入ってるから」
千早が今春に出したアルバム。
それは悠也と再開してその後直ぐに冬馬と作った曲。
蒼い鳥が入っているアルバムだった。
「ん、本とは全部欲しいんだけど今日はちょっと使えないからこれだけで。ごめんね、買って来るね♪」
そして慌しく麻鈴はレジにと向かっていった。
麻鈴がレジ待ちをしている間、千早が辺りを見回していると何やら不穏な空気が流れている事に気付いた。
慎重に視線を巡らすと案の定ヒソヒソと話す声が聞こえて来る。
非常に心当たりのある前兆だった。
こればかりは嬉しい事ではあるのだがアイドルとしての宿命としか言いようが無い辛さを伴う事を
千早は身を持って既に体験済みだった。
「千早ー♪買って来たよー♪」
なんの悪意も無く嬉しそうに言った麻鈴の声が引き金となる。
何処からとも無く黄色い声が上がった瞬間、千早は麻鈴の手を取っていた。
「麻鈴、行くわよ!」
手を取って脱兎の如く駆け出す千早に麻鈴は走りながらも思考が追いついていなかった。
「え、え、え?」
幸い東京のそれ程混んでいない町並みを駆け抜けていくがやはり津波の様な人だかりが押し寄せてくる。
「アッハハハハハッ♪千早すごいねー♪」
やっと状況を把握した麻鈴が嬉しそうに声を上げた。
「半分は貴方のでしょ!」
後方から聞こえる声には歓喜の悲鳴の他に千早や麻鈴の名前を呼ぶものがあった。
「ははっ、ちょっと嬉しいな♪千早こっちだよ!」
そう言って麻鈴は千早を先導しながら走り出した。
思いの他足の速い麻鈴は千早と身長差こそあるものの同じ速度で走れるのだった。
麻鈴の先導に従ってくねくねと複雑な道を進んでいくと最終的にあれだけの人を撒いてひっそりとした住宅街に辿り着いた。
「はぁー、あー楽しかったぁ♪」
追っ手が来ないとなると開口一番麻鈴はそう呟いたのだった。
「はぁ、疲れたわ…」
千早が呟くと麻鈴はキュルキュルと水筒を開けてコップを差し出してくれた。
「今日はスポーツ飲料だよ、タイミングバッチシだね♪」
注いでくれた飲み物に口を付けるとカラカラに乾いていた喉が一気に冷えていく。
「ありがとう」
麻鈴はコップを受け取り自分で使った予備を重ねると水筒に蓋をして背負いなおした。
しばらく追っ手を気にしながら歩いていると、ふと思いついた事があった。
「麻鈴はああなった時の脱出路を知っているの?」
「ん?あぁ、うん。幾つかあるんだよ、兄さん…ってプロデューサーなんだけどが幾つか教えておいてくれてるから♪」
「そうなのね」
「うん、逃げる時は任せて!」
そう胸を張って麻鈴は言った。
「麻鈴のプロデューサー、いい人ね」
「あ、うん♪自慢のプロデューサーだよ♪」
千早が言うと更に嬉しそうにそう答えた。
「今日は疲れちゃったねぇ、そろそろ戻ろうかー」
「そうね、汗も流したいわ」
「あははっ、そうだねー♪」
そんな事を話しながら再び電車に乗って駅に着く頃には日も傾いてきていた。
大きな夕焼けを丸々見れるこの場所はやはり都会とは違う大らかさに包まれている様だった。
「千早?」
立ち止まって夕焼けに見惚れていた千早に麻鈴は声を掛けた。
「何かしら?」
「千早が泊まってるホテルってあそこ?」
麻鈴が指差す方向には千早が予約を取っているホテルが見える。
「そうよ」
「あ、あの千早」
見ると麻鈴は指を絡めながら何処か恥ずかしそうに俯いていた。
「?」
「あ、あのね。その…千早が嫌じゃなければ、んと。お泊りしちゃ…ダメかな?」
言いながら麻鈴はさっき買ったCDショップの袋をワシャワシャと落ち着き無く摘まんでいる。
「お泊りって…泊まるって事よね…?」
自分で言いながら千早は当たり前な事を聞いている事に気が付いた。
「うん…ダメ?」
そう上目遣いに聞かれると子悪魔のキャッチコピーがちらついた。
「私は構わないけど…ちゃんと事務所の許可は取ってるの?仕事に穴を空けるのはダメよ」
そこら辺は同じ道を歩む者として譲る事は出来ない。
「あ、お仕事は明日は無いんだ。結構、暇だから。でも兄さんに確認して、良かったらいい?」
そう懇願する様に言われて千早は諦める様に溜息を吐いた。
「プロデューサーに確認してOKなら私には何も言えないわ」
千早が言うと麻鈴は顔を綻ばせて大きく頷いた。
そして少し離れて携帯電話を取り出して電話をかけだす。
キラキラと指の装飾品は沢山着けているのに何の変哲も無いノーマルな麻鈴の携帯電話は少し意外だった。
「うん、うん。迷惑は掛けない様にするよ。うん?ほんとー?ラッキー♪えー、じゃあ直ぐ送ってよ。うん、ありがとう♪」
そんな会話が聞こえて来たかと思うと麻鈴は携帯電話を持ったまま千早の方に駆け寄ってきた。
「OKだって!後ね、なんか事務所に所属してる人の優待割引がここで使えるんだってー、直ぐメールでURLくれるってさ♪」
麻鈴がそう嬉しそうに言うと本当に直ぐに着信音が流れた。
「お、きたきたー!」
ピコピコと操作してURLを確認すると麻鈴は満足そうに頷いた。
千早もそんな優待割引の話しを聞いた事があったが忙しさのあまり旅行に来る事は無かったのですっかり忘れていた。
来る前に調べようかとも思ったがやはり面倒くさくなってやめたのだった。
「いこー!いこー!」
前を歩く麻鈴の背中を見つめながら本当に嬉しそうにしている姿に千早は思わず微笑んだ。
ホテルに入ってフロントに事情を話すと嫌な顔をされるかとも思っていたが空き部屋が多い為か快く受けてくれたので千早は驚いた。
観光名所の宿は何処も当日キャンセルは全額払いが相場だったが部屋のグレードをアップする事で無料にしてくれたのだった。
麻鈴の優待割引も合わさって二人で半分を払うなら殆ど同額だったので千早の懐は痛まない。
それも少し嬉しかった。
「麻鈴が我が侭言ったんだから麻鈴が全部払うよ!」
と麻鈴が言い出した事には千早も正直驚いた。
二人分ともなれば大きなお札も1枚では足りないのだから。
「貯めてたお金なんでしょう?」
「そうだけど、今が使う時だと思う!」
「その気持ちは嬉しいけどだめよ。私も泊まるんだから折半にしましょう」
千早がそう言うと麻鈴は不意に覇気を失った様にキョトンとしていた。
「?…せっぱん?」
どうやら言葉が通じなかったらしい。
「割り勘て事よ」
千早が言い直しても相変わらず頭の上には疑問符が見える。
「?…わりかん?」
そこまで来ると意外な事に千早も他の言い方が見つからなかった。
そして助け舟を出してくれたのはフロントの男性だった。
「半分ずつお支払い頂くことでございますよ」
そう丁寧な口調で言って男性が微笑むと麻鈴はポンと手を叩いた。
「おぉ、そっかー♪お兄さんありがとう♪じゃあワリカンで!」
そう言う麻鈴を見てふと千早は気付いた。
今まで友達が居なかったと麻鈴は言っていた。
そうなれば当然そんな言葉を使う機会も無い。
友達と食事に行ったり、カラオケに行ったりした時に使う言葉なのだから…。
そう思って自分の浅はかさを千早は恥じた。
そんな事には気付かずに新しい単語を覚えた麻鈴は嬉しそうに教えてくれたフロントの男性にお礼を言って早速使ったのだった。
部屋に案内されると麻鈴が歓喜の声を上げた。
「わー、ひろーい♪」
と早々に靴を脱いでベッドにダイブしていた。
フロントが荷物を置いて出て行ったので千早もソファに腰掛けた。
スウィートとまではいかないものの結構な広さで風呂も昨晩の様なユニットバスではない所かジャグジー付きだった。
ベッドもセミダブルが二つあり、千早と麻鈴ならくっ付ければ3組は寝られそうな広さだった。
これは流石に優待割引を使ってくれた麻鈴とそれを教えてくれた麻鈴のプロデューサーに感謝せざるを得なかった。
「あ、お風呂入れてくるねー♪」
と麻鈴は走り回っている。
湯を張りに行った麻鈴の荷物をふと見れば大き目のバッグを持ってきた理由がすぐに分かった。
麻鈴は最初から泊まる気だったのだろう。
「千早〜熱め〜?ぬるめ〜?」
きっと湯加減の事だと思い千早は「ぬるめ」と答えた。
麻鈴は戻ってくると千早の隣に座りテーブルの上のルームサービスのメニューをパラパラと捲りだした。
「にゅあっ!でかっ!」
麻鈴がそんな事を言うので見てみると食パンを丸々一斤使ったようなハニートーストの写真が目に付いた。
「千早これ食べよう!」
「食べきれるのかしら…」
「へーきへーき、残ったら明日食べよう♪」
考えただけでもちょっとぞっとする様な事を麻鈴はサラリと言ってくれた。
「飲み物飲み物はっと、千早!シャンメリーがあるよっ!」
夏なのにシャンメリーとはこれ如何に!と言わんばかりの口調で麻鈴は言う。
見る物全てが新しそうな麻鈴はその瞳を文字通り爛々と輝かせていた。
「頼んじゃおっと♪」
麻鈴がフロントに電話を掛けてしばらくするとハニートーストとシャンメリー2本が直ぐに運ばれてきた。
「太りそう〜♪」
と嬉しそうに言いながら麻鈴はハニートーストを切っている。
手持ち無沙汰な千早はシャンメリーを袋から取り出して栓を抜いた。
ポンと弾けるような音がして次いでシュワシュワと炭酸の音がする。
薄桃色の飲み物を二つのグラスに注ぎ、麻鈴がハニートーストを小皿に分ける。
「じゃあ、千早との出会いに!」
「麻鈴との出会いに」
「かんぱ〜い♪」
「かんぱ〜い♪」
チンとグラスを軽く合わせシュワシュワとした飲み物を喉に通す。
「アハハッ、たのしー♪」
言いながらも麻鈴の手は既にフォークを握ってハニートーストを刺していた。
結局ハニートーストを二人で全てたいらげた頃、麻鈴はその小さなお腹を擦っていた。
「癖になりそう…」
そう呟いて幸せそうな顔をしていた。
お湯を張る音が止むと麻鈴が口を開いた。
「千早先に入ってー、麻鈴待ってるから♪」
と少しぐったりしながら麻鈴が言うので少し呆れながらも千早はお言葉に甘えて先に入る事にした。
千早が長髪を洗うのには物凄い時間が掛かる。
少し悪いなと思いつつも麻鈴の今の様子なら大丈夫かとも思わなくもない。
走った所為でかいた汗を再び吸収した肌がシャワーで流されていく。
髪と体を洗って湯船に浸かりながらポチッとジャグジーのボタンを押すと水流が凝ってる部分を揉み解してくれた。
1時間程お風呂を使ってパジャマに着替えて出てくると千早は麻鈴に声を掛けた。
「お待たせ、麻鈴」
「…」
「麻鈴?」
「スー、スー」
千早が傍に寄ると麻鈴は遊び疲れた子供の様に寝息を立てていた。
「クスッ、まったく…」
呆れた様に笑いながら千早は麻鈴の体を揺すった。
「麻鈴、起きなさい。麻鈴」
少し強めに揺さぶると麻鈴は眩しそうに瞼を開いた。
「ん…ぅ、あれ?麻鈴、寝ちゃってた?」
こしこしと目を擦りながら麻鈴は眠たそうに呟いた。
「ごめんね、待たせて。お風呂空いたわよ」
千早が言うと麻鈴は一つ大きな欠伸をしてコクンと首を縦に振るとバッグから洗顔用品を持ってそのままお風呂に向かっていった。
シャーっとシャワーの音が聞こえてきたので千早は安心してシャンメリーに口を付けた。
「フーンフーフーフーフーンフフーン♪」
不意に風呂場の方から鼻歌が聞こえて来る。
麻鈴が丘の上で歌っていた歌だというのはメロディから推察出来た。
丘の上で歌った時の様な女性の声ではなく、いつもの麻鈴の声だった。
しばらくしてシャワーの音が止むと今度は湯船からジャグジーを起動させた音が聞こえてきた。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛アハハハハハハハハッ♪」
直後そう高らかに楽しそうな声を上げるので千早は思わず笑ってしまった。
麻鈴は同い年とは思えない程、子供みたいな可愛らしさがあった。
「はぁー面白かったー♪」
千早がベッドの上で髪を梳いていると浴衣に着替えた麻鈴がタオルで顔を拭きながら出てきた。
そして髪を梳いている千早を見つけると物問いたげな表情を浮かべた。
「ん?どうかした?」
髪を梳かしながら千早が聞くと麻鈴は頭をブンブンと横に振った。
「う、ううん。なんでもない」
そう言って前髪を少し弄るといつもの様にコンコルドを止めた。
それを見て千早は髪を梳かす手を止めて立ち上がると麻鈴に詰め寄った。
「わ!?え?な、なに…?」
少し怒気の混じった千早の表情に気圧されたのか麻鈴は後ずさりしてしまう。
そして無言のまま千早は手を伸ばした。
キュッと目を瞑り顔を強張らせた麻鈴のコンコルドを千早はそっと外してやった。
それから左目を隠していた濡れた前髪をそっと梳くってアップにする。
「え…?」
何が起こったのか分からず麻鈴は露になった黒と銀の両方の瞳をパチクリさせていた。
「私と二人きりで居る時位、自分を隠すのは止めなさい」
そう言って優しく微笑むと千早は手に取ったコンコルドを麻鈴の手に握らせた。
「あ…うん。ごめんね…。そう、だよね。千早は知ってて一緒に居てくれるんだもんね♪」
麻鈴は泣きたそうな嬉しそうな表情で微笑んだ。
千早は再びベッドの上に戻ると自分の隣をポンポンと叩いた。
「いらっしゃい、髪梳いてあげるから」
千早が言うと麻鈴はいつもの様にピョンピョンと軽快に千早の隣に腰掛けて後ろを向いた。
スーッと櫛を通すと麻鈴の髪は予想に反して通りが良かった。
いつもクシュクシュにしているので少し心配だったが手入れはやはり女の子らしく欠かしていなかったようだ。
櫛を引く度に見えはしないが麻鈴の気持ち良さそうな表情が思い浮かぶ。
きっと喉を擦ってもらっている猫よろしく目を細めているのだと想像するに易かった。
「友達同士でこう言うことってするのかなぁ?」
それはなんでもない純粋な質問なのだろう。
「するわよ、仲の良い友達同士なら旅行とかに行けばするんじゃないかしら」
千早は嘘でも本当でもない事を言った。
そんな事は人それぞれだと思うし、人の髪を触るのが好きな子が居ればされたりもする。
しかしそんな当たり前の事を麻鈴は当たり前の様に知らない。
そう言う機会に恵まれなかったと言うには18年は少し長すぎた。
それ故に妙に幼く見えてしまう。
「そっかー♪仲の良い子はするのかー♪」
嬉しそうに言う麻鈴の言葉を聞けば自分の答えは間違いでは無かったと言い切れそうな気もした。
それから交代して麻鈴に髪を梳いて貰うと麻鈴は恐る恐る慎重に慎重に髪に櫛を通していた。
初めて人の髪を梳いてる様に…。
そうでなくても千早の髪に櫛を通すのは大変だ。
それでも麻鈴は丁寧に髪を梳いてくれたので千早の髪はいつもの様にサラサラと音を立てそうな位艶やかになびいていた。
「ねね、千早。一緒に寝てもいい?」
明日も早くに出かけるし寝ようかと決めた直後に麻鈴はそう言い出した。
千早が頷くと麻鈴は自分のベッドから枕を抱いて千早のベッドに潜り込んだ。
千早の右隣に着いた時のその表情と言ったら子供そのものだった。
二人で向かい合うようにして横になると麻鈴は嬉しそうに八重歯を見せて微笑んだ。
「ワクワクしちゃうね♪」
暴露大会とかそう言った物が行われそうな雰囲気が真っ暗な部屋には漂っている。
思わずクスクスと笑みが零れてしまう、そんな感じだった。
モソモソと少し麻鈴は身じろぎして近付いて来ると千早の顔が近くなったのを見て殊更嬉しそうに楽しそうに微笑んだ。
「ねぇ、千早?」
誰も居ないと分かっているのに思わず声が潜んでしまう。
そんな状況を麻鈴は楽しんでいる様だった。
「なぁに?」
「麻鈴ね、千早に会えて今ホントーに幸せだよ♪」
そんなプロポーズみたいな言葉を言われれば千早も照れてしまう。
「嬉しい事も、楽しい事も、分からなかった事もいっぱい知る事が出来た。きっと―」
そこまで言って麻鈴のトーンが少し下がる。
「きっと…寂しい事も新しく知っちゃうんだと思うけど…ありがとうね、仲良くしてくれて♪」
千早もそれは同感だった。
遠い知らない土地でひょんな事から知り合えた同じ道を進む同い年の女の子。
そんな偶然とは言え、少しでも同じ時を過ごした人と別れるのは寂しい。
だから千早は言った。
「麻鈴?」
「ん?なぁに?」
「麻鈴は、きっと私より辛い思いもしてきたと思うの」
そう言いながら千早は重さで麻鈴の左目を隠す前髪をそっと梳くった。
やはり抵抗があるのか瞳を見られまいと麻鈴の体が少し強張ったのが分かる。
恐る恐る開いた麻鈴の左目は少しだけ光っている様に見える。
「でも、今まで耐えてきた分きっと良い事があると思うわ」
「うん…」
「貴女は可愛いし、歌も上手よ。心配しなくていい」
千早がそこまで言うと麻鈴の左目に帯びていた光が歪んだ気がした。
「…ふっ、うん」
「麻鈴ならきっと出来るわ。私が保証する」
それは麻鈴にとっても千早にとってもとっておきの言葉だった。
それを過去の自分に言ってくれたのは悠也で、自分は今それを口にした。
麻鈴と言う同じ道を目指す子が決して道半ばにして心が折れぬ様にと…。
「ち、は…や」
グスッと鼻を鳴らすと麻鈴は甘える猫よろしく千早の肩に額を擦りつけた。
じわりと暖かい物が肩に染みこんで来る。
「ありがとう」
そう掠れた声で言うとしばらく千早の肩で麻鈴は泣いていた。
麻鈴の髪を撫でながら千早はふと悠也の事を思い出した。
あの時、今の麻鈴が自分だったのかも知れない。
そしてあの時の言葉が今の麻鈴をも支えてくれた事。
改めて悠也が言ってくれた言葉の優しさに千早は触れた様な気がした。
麻鈴は泣き止むと目を指の甲で拭っていつもの笑顔を返した。
「あははっ、ごめんね♪恥ずかしいとこ見せちゃったね」
千早も覚えがあるので首を横に振った。
クスクスと微笑むと麻鈴は口を開いた。
「ねぇ、千早?」
「なぁに?」
「キス…しよう?」
「は?」
今なんと言ったか?千早は耳を疑った。
「キス…したい」
麻鈴は至って真面目な声でそう言った。
「キス…?」
「うん、キス」
思い起こせば悠也と話した後そんな事もしたが、少し困ってしまった。
「で、でも麻鈴も私も女の子よ?」
「好きな人としたいって思うのは可笑しな事?」
言われて見れば確かにそうなのだが常識に囚われない性格の持ち主の千早も流石に倫理に反する様な気がしないでもない。
「うーん…」
「麻鈴は初めてだよ、千早は?」
「は、初めてじゃ…ないけど」
千早は耳がカッと熱くなった。
「初めては好きな人とするのがいいんでしょ?千早は女の子だから怖くないもんね♪」
そうじゃないとは思いつつも千早は反論する為の言葉が見つからなかった。
「麻鈴、初めては千早としたい。ダメ?」
大よそ同じ女性にするとは思えない言葉を麻鈴は平気で口にしていた。
そしてそれに対する口上は今の千早は見つけられない。
真っ向から否定しても麻鈴は聞かないだろう。
質問攻めにされて答えられずにお終いの構図が簡単に想像出来た。
「千早、ねぇキス…しよ?」
上目遣いに懇願する麻鈴に千早は諦める他無かった。
「わ、分かったわ…す、少しだけよ」
少しだけと言うのは最後の抵抗だった。
「やった♪麻鈴がしていい?」
「う、うん…」
「じゃあ千早、目を閉じて…」
言われるがままに千早は目を閉じた。
モソモソと近付いてくる衣擦れの音がやけにハッキリと聞こえて来る。
スーッと何かが枕と首の間を通って千早の頭は柔らかい物の上に置かれた。
それが麻鈴の腕だったと言う事に気が付くと途端に胸が高鳴る。
ササッとシーツの擦れる音が一際大きく聞こえた。
「千早、目を開けて?」
麻鈴の声が頬をくすぐったので目の前にあるのだろうと予想しつつ千早は瞼を開いた。
千早が瞼を開くと麻鈴の銀色の瞳が細められる。
近すぎて分からなかったが微笑んでいるようだった。
「千早…大好き」
そう小さく呟いて麻鈴は瞳を閉じると静かに千早に口付けた。
「んっ…」
千早より少しだけ厚めの唇の柔らかい感触が伝わってくる。
それと同時に麻鈴の髪と肌の甘い香りが千早の鼻腔をくすぐった。
自分にもこんな香りがするのだろうかと無意識に思いながら千早は麻鈴の甘い香りに少しだけ夢見心地だった。
頭を抱かれた千早は逃げ場も無く、麻鈴は2,3回食む様に唇を重ねた。
麻鈴は静かに唇を離すと腕を背中に回してキュッと千早を抱き締める。
「大好きだよ…千早♪」
そして満足した様に言うとそのままスースーと寝息を立てていた。
禁忌を犯す様な罪悪感にも似た誘惑から開放された千早は麻鈴を見つめていた。
可愛い寝息を立てながら眠る麻鈴を千早も小さく抱き締めた。
慈しむ様に麻鈴の髪を撫でながら千早も静かに眠りに付いた。
翌日の朝
麻鈴の朝はいつも早かった。
「千早、起きて〜」
そう言いながらプニプニと千早の頬を突付く。
「ちーはーやー♪」
千早が眩しそうに瞼を開くと麻鈴は嬉しそうに微笑んだ。
「おはよー、ちはやー♪」
「ん…おはよう、麻鈴…」
寝惚け眼の千早を引っ張って麻鈴は洗面台に向かった。
「さぁ洗顔して、でかけよー♪」
千早も毎朝のトレーニングで早く起きる方だったが麻鈴はもっと早起きの様だった。
それもそのはず麻鈴は食事やら何やらを毎朝自分で用意してから自宅からは少し遠いあの丘を目指してくるのだ。
毎朝の支度を済ませ千早も目が覚めると身支度を整える。
今日、ここを発つので荷物を全て持ってからホテルを後にした。
まだ朝もやの掛かっている様な小高い丘の頂上は夏とは思えない程涼やかな風が吹いていた。
「ふっ…ん〜〜〜〜〜っ!いい風だねぇ♪」
大きく伸びをしながら麻鈴は笑みを零す。
「ほんと、気持ちがいいわ」
サラリと風にそよぐ髪をかき上げて千早は言った。
「さてとー、千早今日は先にご飯にしようよ♪」
そう言うと麻鈴は大きなバッグの中から一昨日見たバスケットを取り出した。
「冷やしておいたから腐ってないと思うんだけど…ちょっと食べてみる」
バスケットからサンドイッチを一つ取り出すと麻鈴は一口齧った。
「あむ、む…大丈夫そう♪」
麻鈴はそう言って齧ったサンドイッチを加えながら千早の分を分けてくれた。
一昨日とは違って麻鈴の一人分の量がよそられている。
「麻鈴の分は?」
千早が尋ねると麻鈴はバスケットの中身を見せた。
「ちゃんと二人分作ったんだよー♪」
と言う事でデザートのリンゴも二きれずつだった。
食事を終えてシャクシャクとリンゴを食べ終えると麻鈴の水筒のスポーツ飲料を飲み干す。
2回目だと言うのになんだかいつもこうしていた様な錯覚が千早を襲った。
心の何処かで千早自身も麻鈴と別れるのは寂しいと言う気持ちが鎮座しているのだった。
「んーんー、あーあーあーあー」
不意に麻鈴は立ち上がると喉の調子を確かめ始めた。
「ん?あーあーあー」
納得いかなかったのか水筒の飲み物を一口含んでまた確かめる。
「あーあー、うん。バッチシ♪」
麻鈴は千早を見つめてフッと目を細めた。
「聴きたいのは、ドレミの歌…じゃないよね?」
クスッと千早は微笑んで言った。
「そうね、ドレミの歌も良いけどもう二つが聴きたいわ」
「ん、『Beyond the bounds』と『You were there』だね♪カバーだから麻鈴の歌じゃないんだけど聴いててね♪」
麻鈴はそう言って静かに瞳を閉じると口を開いた。
麻鈴の歌声は2度目とは言え聴いてみるとやはり驚きを隠せない。
これまでに聞いていた様な普段の可愛らしい声とは似ても似つかない。
完全に別人の声で麻鈴はメロディをなぞっている。
歌だけを聞いた人ならまさか麻鈴の様な小さな少女が歌っているとは想像も付かないだろう。
経験を積んで創り出した様な歌声が麻鈴のそれだった。
そしてその声が流暢な英語を発音している。
感性とリズム感だけで麻鈴はこの2曲を完全に自分の物にしてしまっていた。
「はぁー、いい調子だぁ♪」
歌い終えた麻鈴は開口一番にそう呟いた。
「お粗末さまー♪」
そしておどけた様にペコリと千早にお辞儀をした。
「本当にビックリするわね、声が全く違うんだもの」
「へへー♪お陰で恥ずかしいキャッチコピーが付いちゃったんだけどね…」
そう言って麻鈴はチラリと小さな舌を見せた。
「フフッ、仕方ないわね」
「そうだねー♪」
「麻鈴、飲み物貰ってもいいかしら」
「いいよー♪はい、どうぞー」
「ありがとう」
コクリと飲み物を通して喉を確かめる。
あれから2ヶ月近く一度も歌は歌っていないが悪くは無さそうだ。
喋る分にも痛みは無い。
千早は決心を固めた。
麻鈴が歌ってくれたからと言う律儀な考えだけではない。
麻鈴の歌を目の前にして聞けば歌いたくなって仕方が無いと言うのがどちらかと言うと本音だった。
千早は立ち上がってシュルリと喉に巻かれていた包帯を解いた。
喉が布の蒸れる嫌な感じから開放されて涼やかな風が当たるとスーッと冷えていく。
「んっんん、あーあーあー」
喉の調子を合わせ始めた千早を見て麻鈴は慌てていた。
「え?ち、ちはやっ!?」
「んー、あーあーあーあーあーあーあーあー」
慌てる麻鈴を他所に千早は音程を取り始めた。
「千早、喉…。喉、痛めちゃうよ!?」
心配そうに見つめる麻鈴に千早は微笑んで言った。
「麻鈴は私の為に歌ってくれたわ、なら私も貴女の為に歌う」
「でも、でも!」
「貴女にあれだけ偉そうな事言っておいて潰れてしまう様な喉ならそれまでなんだわ」
「そ、そんなっ!」
「平気よ、きっと歌いきれる。1ヶ月半振りになるからちょっと失敗するかも知れないけど麻鈴に聴いてほしい。私の『蒼い鳥』」
そこまで言われると麻鈴も諦めた様に口を閉ざした。
スーッと大きく息を吸って千早は口ずさんだ。
麻鈴の為だけに、1ヵ月半振りの蒼い鳥を。
たった三日間の、確かな思い出を…
泣くことならたやすいけれど
悲しみには流されない
恋した事この別れさえ
選んだのは自分だから
群れを離れた鳥のように
明日の行き先など知らない
だけど傷ついて 血を流したって
いつも心のまま
ただ羽ばたくよ
蒼い鳥
もし幸せ 近くにあっても
あの天空(そら)へ
私は飛ぶ 未来を信じて
あなたを忘れない
でも昨日には帰れない
蒼い鳥
自由と孤独 二つの翼で
あの天空(そら)へ 私は舞う
遙かな夢へと
この翼もがれては
生きてゆけない私だから
歌っている最中も脳裏を麻鈴との思い出が過ぎっていく。
歌詞の内容は多少違えども似つかわしいと千早は思った。
これからお互いに離れていても信じあって同じ道を羽ばたいていく。
遥かな頂をめざして。
そう思いながらだった所為か喉はすんなりとメロディを紡ぎ出してくれていた。
1ヵ月半も全く歌わずに傷一つ無い玉を扱うように慎重に丁寧に過ごしていたのが嘘の様に思える。
その確かな充実感は麻鈴が居なければきっと得られずに、今もウジウジと考えて居たかも知れない。
そう思えば感謝したいのは自分の方だった。
「ふぅ…麻鈴」
千早が声を掛けると麻鈴は今我に返りましたと言わんばかりに返事をした。
「え!?あ、はい!」
「ありがとう。貴女と出会えたからきっと歌えたんだと思う」
「そ、そんな事無いよ。やっぱり、千早は凄いよ!」
「フフッ、ありがとう。これからもお互いに頑張りましょう」
「うん、そうだねっ♪」
それから数時間少しだけ昨日や一昨日の話しをして千早はここを発つ事にした。
いつぞやの様に今度は麻鈴が電車まで見送りに来てくれている。
「もう、行っちゃうんだね…」
「そうね、短かったけど…」
「あ、千早。これ、千早にあげる。貰って?」
そう言って麻鈴は雪の様に真っ白なコンコルドと右手の薬指から外したアーマーリングを千早に手渡した。
アーマーリングには小さな惑星のマークが浮き彫りになっている。
「貰って平気なの?」
麻鈴に向けて千早は言ったのだった。
「うん、千早と一緒の時は付けると怒られるからね♪千早が居ない時はやっぱり付けると思う…」
「そう、仕方ないわね。でも麻鈴の秘密を知ってる数少ない内の一人なら悪くないわね」
「あははっ、そうだね♪千早は麻鈴の特別だからね♪アーマーリングは千早の右の薬指につけて欲しいな♪」
「何故、右の薬指なのか理由があるの?」
千早が何気なく聞くと麻鈴は少し恥ずかしそうにアーマーリングだらけの指を絡めた。
「麻鈴ね、好きな人を守ってあげたいし、好きな人に守って貰いたい。だから麻鈴の右手の薬指は千早に守って欲しい」
「どう言う事?」
「指輪をする…大切な指だから」
「そうなのね」
「千早の指はそれが守ってあげるから、麻鈴の代わりだと思ってね?」
ちょっと心配そうに麻鈴が言うので千早は小さく微笑むと早速右の薬指にはめて見せた。
「大切にするわね」
「うん♪約束ね♪」
麻鈴は明るくそう言ってまた少し俯いてしまった。
「ねぇ、千早?」
「なぁに?」
「麻鈴は…千早の友達でいいんだよ、ね?」
今度は懇願する様な上目遣いで麻鈴はそう尋ねた。
しかし、千早はその問いには首を横に振った。
「え…千早は麻鈴の…」
今にも泣きそうな顔になってしまったので千早は言った。
「貴女は、麻鈴は友達じゃないわ」
「え…」
そう呟いた麻鈴の表情は今にも泣き出しそうな子供のそれだった。
「そんなものはとうに通り過ぎてしまったもの」
「じゃぁ!…」
「私は貴女を仲間だと思ってるわ。同じ道を行く、同じ志を持った仲間。違う?」
千早がそう尋ねると麻鈴はブンブンと首を横に振った。
「ううん。仲間…うん、仲間だよね!」
そう確認する様に呟くと麻鈴は何時もの可愛らしい笑顔を向けてくれた。
「また会えるよね?」
「きっと、いつかまた会えるわ」
「そうだよね…」
寂しそうな麻鈴の顔を見ると決心が揺らいでしまいそうになる。
それでも、麻鈴の為にも自分の為にも千早はここには残れない。
それに千早の決心が未練に負けてしまえば麻鈴も自分も泣いてしまうだろう。
そう思うと千早の決心は再び固まっていた。
出来れば泣いて別れたくはない。
そう願っていた。
電車のベルが鳴った刹那、麻鈴が口を開いた。
「千早っ!麻鈴、絶対東京に行くからっ!千早に負けない位CD出すからっ!待っててね!約束だよ!?」
最後の方は掠れた声で言うと麻鈴はその黒い目と銀の目の両方から透明な涙を滲ませていた。
「えぇ、待ってるわ」
千早が言い終えると同時にドアが閉まるとドアの向こうで麻鈴が乱暴に涙を拭う。
その姿を見ていてはどうしても笑顔を作れなさそうなので千早は自分に言い聞かせる様に魔法の言葉を呟いた。
「わ・ら・っ・て」
そう口を動かすとほんの少しだけ勇気が出た様な気がして千早は微笑んだ。
それを見ていた麻鈴も涙を携えながらも殆ど見上げる様にして笑顔を返した。
電車が音を立てたので千早は最後に麻鈴に向けてもう一度口を動かした。
「ま・た・ね」
千早がそう言うと麻鈴は涙ながらにうんうんと何度も頷いてやがて足を止めた。
麻鈴が何か言った様に見えたが千早の耳にはもう届かなかった。
「くっ…うぅ、う…ふっ、ぁ…」
何故だろう
今生の別れじゃないと知っているのに、何故麻鈴と別れるのはこんなにも辛いのだろう。
悠也と別れた時、悠也も同じ思いだったのだろうか?
きっと違う。
悠也と根本的に違うのは麻鈴が恋にも似た好意をまっすぐ自分に向けていてくれたからなのだと
千早は誰も乗っていない電車の中で、止まらない涙を拭いながらそう思った。
<魔法をかけて>